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『善光寺縁起』〜御開帳に出かける前に知っておきたい本尊と善光寺創建の物語~

『善光寺縁起』〜御開帳に出かける前に知っておきたい本尊と善光寺創建の物語~

この春、長野市の善光寺(ぜんこうじ)では待望の御開帳(ごかいちょう)が行われます。七年に一度、善光寺の本尊と同じ姿の分身仏「前立本尊(まえだちほんぞん)」を公開するのが御開帳です。善光寺の本尊は、今から約1400年前、インドから朝鮮半島の百済(くだら)国を経て、仏教伝来とともに伝えられた日本最古と言われる仏像「一光三尊阿弥陀如来(いっこうさんぞんあみだにょらい)」です。善光寺如来とも呼ばれています。しかし、この本尊は絶対秘仏(ぜったいひぶつ)とされ、常に厨子(ずし)が閉じられた状態にあるため、御開帳時でも拝むことはできません。本特集記事では、この本尊と善光寺創建のいわれをつづった物語『善光寺縁起』(ぜんこうじえんぎ)を通して、善光寺と御開帳について紹介します。

88日間にわたって開催される御開帳

善光寺御開帳は令和4(2022)年4月3日~6月29日に行われます。本来なら令和3(2021)年春に開催される予定でしたが、新型コロナウイルス感染拡大防止の観点から、延期をしての開催となりました。

御開帳では、本尊である「一光三尊阿弥陀如来(以下、善光寺如来)」と同じ姿をした前立本尊の右手に結ばれた金糸が「五色の糸」となって伸び、さらに白い「善の綱」となって本堂前に建てられた「回向柱」(えこうばしら)に結ばれます。回向柱に触れることは、前立本尊とつながることになり、功徳(くどく)が得られると言われています。
前回、平成27(2015)年の御開帳の参拝者は、推計707万人にものぼりました(善光寺事務局発表)。

善光寺縁起「前立本尊御遷座式」の様子
善光寺縁起平成27(2015)年「中日庭儀大法要(浄土宗)」の様子

善光寺の本尊である善光寺如来と善光寺創建のいわれをつづった物語を『善光寺縁起』と言います。縁起とは神社仏閣などの「いわれ」を意味します。『善光寺縁起』とはどのようなものなのか。お話を伺いに善光寺の門前にある宿坊(しゅくぼう)「淵之坊(ふちのぼう)」を訪ねました。

『善光寺縁起』を伝える役割を担ってきた宿坊・淵之坊

善光寺縁起宿坊・淵之坊の外観
善光寺縁起宿坊にはそれぞれ御堂がある

善光寺には、大勧進(だいかんじん)を本坊とする天台宗の宿坊25軒、大本願(だいほんがん)を本坊とする浄土宗の宿坊14軒、合計39軒の宿坊があり、各々、善光寺に関する勤めを行うとともに、宿泊所・休憩所として宿坊料理(精進料理)を振る舞うなど、全国から訪れる参拝客をお迎えしています。その宿坊の一つ、淵之坊は『善光寺縁起』を伝承していく役割を担っています。江戸時代の地図にも「縁起堂(えんぎどう)」と記されています。淵之坊の住職・若麻績享則(わかおみ たかのり)さん、副住職・若麻績憲義(わかおみ のりよし)さんが解説してくださいました。

善光寺縁起寺務総長でもある淵之坊住職の若麻績享則さん

享則住職
「宿坊にはそれぞれ役割があり、私どもは縁起堂として『善光寺縁起』を伝えていくことが仕事です。この物語は平安時代には成立していたと言われていますが、もっと古くから伝えられてきたのではないでしょうか。平安時代後期(12世紀後半)に編纂(へんさん)された『伊呂波字類抄』(いろはじるいしょう)には、奈良時代(8世紀)中ごろに京の都で善光寺の御本尊の存在が知られていた旨が書かれていますから。そして絵伝(えでん=伝記などを絵でつづったもの)になったのは鎌倉時代(1185年~1333年)と言われています。『善光寺縁起』は書物、お札(ふだ)、そして落語(演目「御血脈(おけちみゃく)」)などの様々な形態で語られるようにもなりましたが、親しみやすい絵伝になったことで庶民の心にも溶け込み、日本中に広がったことで、善光寺の信仰の礎をつくるのに重要な役割を果たしたのです」

善光寺縁起室町時代に描かれた絵伝は長野県宝でもある。真ん中の掛け軸から物語が始まり、右、左という順番で物語がつづられている
善光寺縁起江戸時代に描かれた絵伝は、コマ割りがはっきりしている。右端の掛け軸の右下から左上に読み始め、左端の掛け軸の左上が最後のコマになっている

残念ながら、近代以前の貴重な資料の多くは火災で消失したり、戦国時代の「川中島の合戦」以降、武田信玄、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康ら大名が善光寺如来を全国各地に移して、祀った(移転奉祀=いてんほうし)ために散失してしまいました。
絵伝は掛け軸、一枚絵のものなど、その形態や描いた人も様々ですが、淵之坊では、現存するものとしては最古の室町時代の3幅の掛け軸(長野県宝)や、鮮やかな色彩がまったく褪せずに保存されている江戸時代の4幅の掛け軸など4点をお持ちだそうです。享則住職、憲義副住職とも、機会があるごとに江戸時代の掛け軸を使って、物語を解説する“絵解き”を行っています。

また、淵之坊では、江戸時代(1692年)に出版された5巻本『善光寺縁起 三國伝来善光寺如来縁起』を所蔵しています。これは幅広い分野の著作を残した京都の国学者・坂内直頼(さかうち なおより)が、漢文で書かれた4巻本の書物を新たに仮名に書き改めたもので、庶民にも広く読まれるようになったと言われています。

善光寺縁起坂内直頼による『善光寺縁起 三國伝来善光寺如来縁起』

憲義副住職
「寺院・仏像などの新造・修復・再建のために浄財(じょうざい=寺院などへの寄付)を募ることを勧進(かんじん)と言います。善光寺にはお檀家(だんか)さんがおりません。お寺を切り盛りするにはお金が必要なため、多くの皆様に参拝していただかなければならないのです。本坊の大勧進(もとは寄付を集める役職名だったが、寺名となった)は鎌倉時代からあって、大勢のお坊さんが善光寺聖(ぜんこうじひじり)として全国に飛び、御本尊の分身の掛け軸などを持って『善光寺縁起』を語り、布教活動をしたそうです」

善光寺聖による布教活動と戦国時代の移転奉祀により、全国各地に善光寺を名乗ったり、本尊と同じ形をした仏像などを持つ寺院が増え、善光寺信仰が広がりました。平成4(1992)年の調査では、善光寺如来と同じ形の仏像を持つ寺院は443カ所、善光寺を名乗る寺院は119カ所にものぼったそうです。この調査を機に「全国善光寺会」が設立され、2年に1度「善光寺サミット」が開催されています。
(「善光寺サミット」:2019年のサミットでは全国善光寺会員同士の情報交換のほか、一般向けの講演、全国善光寺会員の寺のご朱印がもらえる「ご朱印巡り」などが行われた)

善光寺如来はインドで生まれ、百済国を経て日本へやってきた

次に絶対秘仏の善光寺如来について伺いました。善光寺如来はインドで生まれ、朝鮮半島の百済国(4世紀前半~663年)を経て、古墳時代の552年、仏教伝来の時に日本へ伝わってきました。絶対秘仏とされる善光寺如来はどんな仏像でしょうか。冒頭で記した一光三尊阿弥陀如来は、一つの光背(仏身から発する光明を表現)の中に阿弥陀如来(あみだにょらい)、向かって右に観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)、左に勢至菩薩(せいしぼさつ)が配置された仏像のことを言い、この三尊を称して善光寺如来と呼んでいます。

善光寺縁起善光寺如来こと一光三尊阿弥陀如来

憲義副住職
「善光寺如来様は日本の仏像にはない形をしています。光背は普通、阿弥陀如来様だけについているか、別々についているものですが、三尊を一緒に包み込んでいます。また三尊の足元の蓮台(れんだい)には花びらがありません。そして阿弥陀如来様の印相(手の形)はじゃんけんのパーとチョキの形をしています。知恵の水をジョウロのようにして皆さんに授けているのだと言われています。観世音菩薩、勢至菩薩の左右の手を上下に重ねた印相も珍しく、病気を治す薬の箱が入っていると言われています。そして絵に描かれる時には必ず足元に月蓋長者(がっかいちょうじゃ)と如是姫(にょぜひめ)が登場するのも特徴です」

月蓋長者、如是姫とはインドに暮らし、善光寺如来が誕生するきっかけになった人物です。

善光寺縁起善光寺如来について説明してくださった若麻績憲義副住職

ここからは、遡ること約2500年前に始まる『善光寺縁起』の物語より、いくつかのエピソードを紹介します。

仏教の開祖・釈尊(しゃくそん=お釈迦様)が善光寺如来をつくった

今から約2500年前、釈尊がインドに住んでいたころ、月蓋という長者がいました。他人に施す心など持たない月蓋を救おうと釈尊は弟子や息子を遣わしたものの叶わず、ついに自身が月蓋のもとに向かいます。それでも欲深い心は変えられません。ところが溺愛する月蓋の娘・如是姫が病魔に冒され、治療の手立てがなくなった月蓋は釈尊を訪ね、懇願します。釈尊の「阿弥陀如来を信じ、阿弥陀仏、観世音、大勢至、三尊の大慈大悲(だいじだいひ)によって一切の苦しみを救っていただくがよい」との教えを信じ、月蓋は祈り続けました。すると三尊仏が現れ、光線を娘に当てると病が治癒しました。月蓋は三尊仏の姿を留め置くことを釈尊に願い出ます。釈尊は竜宮城随一の宝物である閻浮檀金(えんぶだごん)という金塊をもらい受けます。鋳造の当日、釈尊が光で照らすと金塊は三尊仏に姿を変えました。これが善光寺如来です。

  • 善光寺縁起釈尊が善光寺如来を鋳造している様子
  • 善光寺縁起釈尊が善光寺如来を鋳造している様子は、江戸時代の絵伝では光線が描かれている

憲義副住職
「お釈迦様と阿弥陀如来様の光線によって金を溶かし、阿弥陀如来様の分身をつくられたのが善光寺如来様なのです。本物の阿弥陀様は極楽浄土にお帰りになり、分身の善光寺如来がインドから朝鮮半島を経て、今から1400年前(古墳時代)に日本にやって来られました。分身とは言え、お釈迦様自らおつくりになられた、ありがたい仏様なのです」

時は流れ、朝鮮半島の百済国では聖明王(在位523年~554年)が世を治めていました。実は聖明王は月蓋の生まれ変わり。しかし、王はそれとは知らず悪行を重ねていましたが、インドからやってきた善光寺如来が過去の因縁を伝えたことで改心します。そして善光寺如来は次なる教化(命あるものを教え導いて恵みを与えること)の地として日本へと渡ります。

本田善光が信州へ善光寺如来を連れ帰った

日本では、古墳時代(6世紀ごろ)の欽明(きんめい)天皇のもと、552年に仏教が伝来します。これを受け入れるか否かをめぐって崇仏派(すうぶつは)の蘇我(そが)氏、廃仏派(はいぶつは)の物部(もののべ)氏・中臣(なかとみ)氏の論争が起こり、善光寺如来は物部氏によって難波の堀江(仁徳(にんとく)天皇が現在の大阪市に築いたとされる水路)に投げ入れられてしまいます。

一方、信濃国の麻績(おみ)の里(現在の飯田市座光寺)に暮らす本田善光(ほんだ よしみつ)は息子・善佐(よしすけ)を連れ、信濃国国司(こくし=現在の知事)の従者として上洛します。京の都からの帰り、たまたま難波の堀江に立ち寄ると、善光のことを呼ぶ声とともに、水の中から光り輝く善光寺如来が現れます。善光は前世、インドでは月蓋、百済国では聖明王として生き、善光寺如来とずっと縁があったことを告げられ、時の推古(すいこ)天皇の許可を得て善光寺如来を故郷に連れ帰り、祀りました。飛鳥時代、602年のことです。そして同じ飛鳥時代、皇極(こうぎょく)天皇になった642年に善光寺如来のお告げにより、信濃国水内郡芋井(みのちぐんいもい=現在の善光寺がある地域)に移ることになりました。

ちなみに善光が善光寺如来を最初に祀った地が飯田市にある元善光寺の起源で、諏訪市湖南の善光寺は飯田から長野へ移る途中でとどまった地と伝えられています。

  • 善光寺縁起上方には善光寺如来を背負う善光、中央左には針のムシロに立たされる皇極天皇の姿が
  • 善光寺縁起本田善光が善光寺如来を背負い、背負われ故郷に帰る様子が描かれている

憲義副住職
「善光寺如来様は別名、生身(しょうじん)如来と言われ、人間と同じような大きさで、体温も感じられたそうです。善光が善光寺如来様を見つけて背負って帰るわけですが、時には如来様が善光を背負われます。仏様というと人間が一方的にお祈りする対象のような印象がありますが、この如来様は頻繁に人と会話をされ、人を助けるエピソードがたくさんあります。非常に人に身近な存在なのです」

長野市に善光寺が創建される

水内郡芋井に移ってしばらく、善光の息子・善佐がなんの前触れもなく死んでしまいます。その行いにより地獄に落ちた善佐を救うため、善光寺如来は閻魔(えんま)大王を訪ねます。娑婆(しゃば=人間の生きる世界)へ帰ることを許可された善佐は、その途中、鬼に追い立てられて疲れ切っていた女帝・皇極天皇と出会い、善光寺如来に自分ではなく天皇を助けてほしいと懇願します。善佐に助けられた皇極天皇の勅願(ちょくがん)により、古墳時代(644年)には伽藍(がらん=寺院)が造営され、寺院は本田善光の名を取って「善光寺」となりました。

善光寺縁起地獄の場面には、善佐の白装束の姿がいくつも描かれている

創建当時の善光寺の様子

創建当時の善光寺は塀で囲まれ、五重塔も見られます。左上に描かれているのが宿坊です。そして左下には女性や貧しい人びとの姿も描かれています。善光寺が宗派・身分・性別などを問わず、あらゆる衆生(しゅじょう=人間をはじめすべての生物)を極楽浄土に導いてくれる寺院であることが、室町時代の絵伝に描かれています。

善光寺縁起創建当時の善光寺の様子

憲義副住職
「善光寺が創建されたころは、まだ仏教に宗派がない時代でした。お寺の敷地に神社や鳥居もありました(神仏習合=しんぶつしゅうごう)。善光寺が宗派問わずのお寺と言われるのはこうした由来からです。そしてどんな人もお救いするのが善光寺如来様です。この絵伝には女性や身分の低い人びとが描かれています。如是姫、皇極天皇など女性救済の場面がいくつも登場しますが、当時の寺社仏閣は女人禁制でしたから大変珍しいことです」

牛に引かれて善光寺詣り

信濃国の小県の里(現在の小諸市の布引観音付近)に暮らす心の貧しいおばあさんが川で布をさらしていると、一頭の牛が現れ、ツノに布を引っかけて去っていきます。慌てたおばあさんが牛を追いかけるうち、ついに善光寺までたどり着きます。疲れ果てて本堂で寝入ってしまったおばあさんの夢枕に善光寺如来が現れ、諭されたことから、おばあさんは不信心を改めます。この逸話は室町時代の掛け軸にはありません。江戸時代に流行った物語を取り入れたものと考えられています。

善光寺縁起「牛に引かれて善光寺詣り」の場面

ここまで『善光寺縁起』に描かれているいくつかのエピソードを紹介しましたが、このように善光寺創建の成り立ちや善光寺如来誕生の背景には壮大な歴史の物語があるのです。
また14軒ある浄土宗の宿坊の多くは若麻績姓で、本田善光の子孫として善光寺を守ってきました。その一人である享則住職は取材時、天台宗と浄土宗で2年ごとに交代する善光寺事務局の寺務総長を務められていらっしゃいました(御開帳開催時には次の役員体制になる予定)。御開帳の開催に向けて、中心になって尽力されてきた想いを改めて伺いました。

享則住職
「新型コロナウイルス感染症が早く収束すること、それが一番の願いです。1年延期になった御開帳ですが、たくさんの方々が待っていらっしゃることもわかっていますし、まだまだコロナを不安に思っている方も多いでしょう。御開帳は88日間の長期にわたりますので、分散、安全、安心を徹底し、気持ち安らかにお参りし、祈りを捧げていただければと思います。無事が一番、事無きが一番でございます。
御開帳は過去、現在、未来を結ぶものです。過去には「おじいちゃんおばあちゃんと来たなあ」という思い出が染み込んでいます。現在は「この瞬間にお参りできる」という喜び、未来には「七年後にまたお参りできるかなぁ」という願いがあります。そうやってご自分と向き合い御本尊を思うことこそ、尊さを感じる瞬間ではないかと思います」

『善光寺縁起』には聖徳太子が登場し、善光寺如来と文通をしていたなど、ほかにも興味深いエピソードがたくさんあります。また善光寺の本堂の右奥には本田家=善光、善佐、そして善光の妻の仏像が祀られています。女性が仏像として祀られていることも非常に珍しく、これもまた「宗派・身分・性別などを問わず、あらゆる衆生を極楽浄土に導いてくれる」善光寺の懐の深さの象徴です。宿坊・淵之坊で『善光寺縁起』の絵解きを体験し、善光寺御開帳に参拝すると、七年に一度の貴重な体験が、さらに豊かなものになるのではないでしょうか。

参考:「善光寺縁起ものがたり」(著・坂内直頼 訳・小林一郎/光竜堂)、「善光寺絵詞伝」
善光寺宿坊組合:専用電話番号 Tel.026-237-7676

取材・文:いまいこういち
御開帳写真提供:善光寺
撮影:阿部宣彦

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