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伊那谷の自然と文化を映す多面体〜市民と共に育つ飯田市美術博物館

伊那谷の自然と文化を映す多面体〜市民と共に育つ飯田市美術博物館

城下町・飯田市の中心、飯田城二の丸跡に建つ飯田市美術博物館は、1989(平成元)年の開館以来、「伊那谷の自然と文化」を掲げ、自然・歴史民俗・美術・プラネタリウムを一つに束ねてきました。山並みを想起させるモダンな建築、樹齢450年以上の「安富桜」が見守る敷地。柳田國男館・日夏耿之介記念館を擁するこの場所は、市民団体や学校、研究者、地域住民を巻き込みながら育ってきました。

同館の学芸係長(副館長補佐)・織田顕行さんは、館の歩みを「ホテルの朝食バイキングから、幕の内弁当へ」と表現します。多様さを保ったまま“整い”を得る——その成熟過程には、展示と教育の連動やデジタル化、市民ボランティアをはじめとした地域との協働の動きがあります。ここでは開館から現在までの変化とこれからの展望を、織田さんの言葉からたどっていきます。

総合ミュージアムという器

飯田市美術博物館の特徴は、自然・人文学(歴史民俗)・美術・プラネタリウムの4領域を同居させる“総合型”にあります。常設展示は自然・人文・美術それぞれのゾーンを備え、企画・特別展示室、学習室、講堂、科学工作室、図書室など、学びの導線が館内に張り巡らされ、関連施設として柳田國男館と日夏耿之介記念館が並びます。立地は飯田城の二の丸跡。桜の季節には「安富桜」を目当てに多くの人が訪れ、外から内へと回遊させる“文化の縁側”としても機能しています。

写真:飯田市美術博物館飯田市美術博物館

この総合性は、開館前から地域に存在した力が結集した、ひとつの姿でもあります。伊那谷自然友の会、飯田文化財の会(当時)/伊那史学会などの市民グループがそれぞれに施設を望む声を上げたこともあって「美術と博物館の機能を併せ持つ器」を選ばせたとも言えます。分野の作法は違い、長らくは「それぞれが、とがったことを好きにやっていた」というほどの分化もありましたが、実践の蓄積で時代とともに境界はにじみ、それぞれの要素が互いに補完し合う効果が生まれています。織田さんは言います。「いまは、お互いを意識して展示を組む。バイキングのにぎわいを残しつつ、幕の内の整いへ——ようやく向かっている実感があります」

その“整い”の工夫として、各分野を横断するプラネタリウム番組(後述)や、「トピック・コーナー」による動く常設展示、学校来館の際に授業として使いやすい解説と導線設計があります。展示室を“据え置き”ではなく“循環させる”という発想が、総合的な館の動きを整えはじめました。

  • 写真:飯田市美術博物館
  • 写真:飯田市美術博物館

転換の2000年代——市民と協働した資金調達、来館者の拡大

開館から十年余、来館の7〜8割は地元・飯田下伊那に暮らす利用者という反面、「敷居が高い」という声も根強くありました。「当時は全国発信を狙う傑作主義に寄り過ぎ、足元が見えていなかった」と織田さん。2002〜03(平成14~15)年の菱田春草《菊慈童》購入の際、転機が訪れました。市民募金を立ち上げ、想定を上回る支援が集まり、2003年のお披露目展(約3週間)には3万人超が来場。かつては“大きな展覧会でも来場者は3〜4千人”が相場だったことを思えば、桁違いの数です。「市民が主体的に関わると、来館につながる」——この成功体験が、館の姿勢をより地元に向かわせるきっかけとなりました。

2006(平成18)年にスタートした「美博まつり」は、足を運んだことのない層に開かれた入口となりました。化石レプリカづくりなど、各分野の専門性を生かした体験型プログラムを多数配置。子どもが主役のにぎわいは、館の“敷居”を一段低くしました。2008(平成20)年の開館20周年では、ロゴマークを公募し、約1500点の応募がありました。封筒や名刺、案内物に統一デザインを導入。イメージシンボルが同館の“言語化”を助け、広報や連携のスピードを上げていきます。

さらにこの時期、開館当時はあまり点数がなかった収蔵品の充実も進みました。春草作品は高価で点数が揃いにくい課題がありましたが、ご遺族から素描や資料の寄贈が重なり、2017年(平成29)、ついに春草の常設化が実現。翌年以降は自然・歴史民俗の常設展示も、「入れ替わる常設から動く常設」へとシフトされていきます。

  • 写真:飯田市美術博物館菱田春草
  • 写真:飯田市美術博物館菱田春草常設展示室

デジタル化と“動く常設”——展示と教育をつなげる設計

2010〜11(平成22~23)年のプラネタリウムのデジタル化は、館の横断性を“番組”として編む転機となりました。飯田市を象徴するりんご並木や天龍峡など、飯田下伊那の風景を紹介する10分番組を制作し、学芸員が解説する特別プログラムも展開。春草の生誕と命日の時期に開催される「春草ウィーク」に合わせて美術×天文を掛け合わせるなど、各分野の“ネタ”を持ち寄る仕組みができ、プラネタリウムは夜空だけでなく、地域の記憶を映す球体になってきたのです。

  • 写真:飯田市美術博物館
  • 写真:飯田市美術博物館プラネタリウム(写真提供:飯田市美術博物館)

展示室では、トピック・コーナーを設置し、内容を定期的に入れ替えるような形に変化していきました。つくり込み過ぎず、手作りでも柔軟に動かす方針を徹底。ここで重視されたのが学校利用のしやすさです。小グループ単位の観覧や、問いに応える対話型の解説、学区固有のテーマ(例:りんご並木)につなげられる資料の配置など、授業の現場で“使える展示”を意識するように。2019年の開館30周年には自然・歴史民俗の常設展示を手直しし、学校連携の受け皿をさらに拡げていきます。

また、コロナ禍はイベントの改善が迫られました。「美博まつり」から「ワクワクびはくで夏休み」へと名称も刷新し、当時は事前予約制・日にちを分散させた開催で体験の質を最優先に(現在は1日にまとめて)開催。運営面においても、多くのボランティアが支えてきました。その構成は年によって異なり、高校生を中心とするグループから主に60代以上の「飯田・城下町サポーター」まで幅広く参加してきました。
その後、毎年変動する多様なスタッフ体制から、美術博物館の活動を理解する固定メンバーによる安定した運営体制へと移行し、展示解説やまち歩きを中心に活動を支える形へと変化しました。

  • 写真:飯田市美術博物館ワクワクびはくで夏休み ワークショップ「へんてこマスコットを作ろう」(写真提供:飯田市美術博物館)
  • 写真:飯田市美術博物館ワクワクびはくで夏休み ワークショップ「パクパクお獅子をつくろう」(写真提供:飯田市美術博物館)

学校・地域とどうつながるか——“外へ出る”ミュージアム

飯田市では「小学校6年間で必ず一度は来館」という方針があり、7月から秋にかけて学校来館が続きます。学芸員は一方通行の講義ではなく、子どもたちの問いを受け止める対話型を実践。中学生の総合学習や高校の探究でも来館・下見が増え、教員と共同設計する授業も行われています。今後は飯田のキャリア教育を進める中核的な教科として位置付けられている小中一貫のカリキュラム「みらい創造科」との連携が想定され、りんご並木、天龍峡、飯田城下町史などといった学区固有のテーマに即した地域探究の伴走者としても、存在が期待されていきます。

館は外にも出る。中心市街地のドーナツ化が進むなか、商店主・住民の「歴史を学ぶ場がほしい」という声に応え、勉強会・ワークショップの出前授業も行い、館は“地域学の拠点”としての役割を強めていきます。

市民協働の実例は他にもあり、年1回開催されている「現代の創造展」は市民主体で20年以上継続。最近は高校生が“一日学芸員”として推し作品を語る取り組みも生まれ、「自分の言葉で語る」場の設計が、鑑賞者を参加者へと変えるきっかけにもなっています。また、同館が“友の会”を作る代わりに既存コミュニティとの連携を深め、年間パスポートでリピーターを増やす取り組みを重ねてきたのは、「市民の成熟に歩調を合わせる」選択でもあるように見えます。

写真:飯田市美術博物館飯田市美術博物館学芸係長(副館長補佐)・織田顕行さん

学芸員の実践と人脈——仏教美術を核に広がるネットワーク

織田さんにとって、“学芸員が一人前になるためのステップ”としてまず挙げられるのは、自身が企画した大規模な企画展示をやりきること。2001(平成13)年、織田さんが初の特別展に選んだのは聖徳太子信仰。飯田で見つかった真っ黒に劣化した聖徳太子絵伝を6年かけて保存修理し、全国の名品を集めて価値を可視化する挑戦でした。文化財修理は作品を若返らせるのではなく劣化を止めるのが原則。黒いまま戻った掛け物の意味をどう伝えるか——四天王寺など大寺院への出品交渉、同時期のNHK大型展との調整、図録執筆まで、総合芸術に近い経験が、学芸員としての背骨をつくりました。

この縁は学習院大学の復元プロジェクト(2006〜)に続き、学術の幹を太らせます。地方館の学芸員が専門を活かし、“地域に根ざす研究者”としても働けるのは、飯田市美術博物館の土壌ゆえ。「うちは専門を活かす文化がある。分野が散っている総合館だからこそネットワークが広がり、館全体の厚みになる」と織田さんは言います。
現在、入職5年目の学芸員が特別展「山とともに生きる—遠山郷の歩みとくらし—」に挑戦中。テーマ選定、借用交渉、展示設計、教育連携、広報、図録制作……。一連のプロセスを自分の責任で通し切ることは、次の世代が一人前になるための大きなステップになります。

また、南信州は霜月祭りをはじめ民俗芸能の宝庫。柳田國男館を拠点とする伊那民俗学研究所や伊那谷自然友の会とともに、映像・記録のアーカイブを継続。消滅の危機にある行事ほど、記録の重要性は増していきます。未デジタル化資料のアーカイブ化を若手が加速させ、“ここに来れば全体像が見渡せる”環境を育てています。地元に根を下ろした学芸員が調査を担い続けること——それ自体が地域の文化保全であると言えます。

写真:飯田市美術博物館

市民協働で運営を更新する——量から質へ、点から面へ

2000年代の市民募金による春草購入、2006年からの子ども向けイベント、2010年代のデジタル化と展示循環、そしてコロナ禍を市民と乗り越えてきたこの二十年余の転換史は、常に「地域の声を聞く」ことで舵を切ってきた歴史でもあると言えます。

いま、館は「使える施設」として、期待に応える役割を担っています。学校が調べ学習や探究で使える展示、地域に暮らす人たちがまちの物語を学ぶ勉強会、来訪者をまち歩きへつなぐ導線、サポーターによる解説——点のイベントから面としての「文化の拠点」へ。市民の成熟が高まり、“欲しい学び”が具体化するほど、館の出番は増えていきます。

“幕の内”への道筋——菱田春草と田中芳男、二つの核で様式を編み直す

これからのキーパーソンは二人だと織田さんは言います。美術系は菱田春草。そして博物系は田中芳男——本草学に根ざす“博物学”の人で、博覧会から恒久施設としての博物館を構想した“日本の博物館の父”。自然・歴史・美術を横断する飯田の総合性と極めて相性がよい二人の名を挙げました。

春草は地域の誇りとして来館者を惹きつけ、田中芳男は総合館の横断の精神を象徴。二つの核を左右に据え、展示・教育・研究・地域連携を “幕の内弁当”の発想で詰め合わせます。大切なのは「一つにまとめ切らない」こと。織田さんは、印象に残っている東本願寺に掲げられていたコピー「バラバラで一緒」を例に挙げ、多様性を認めながら方向だけは共有していきたいことを示されました。

目指す姿はいたってシンプル。「ここに来れば、伊那谷がひと通りわかる」。その世界観を、常設・企画・プラネタリウム・ワークショップ・まち歩き・アーカイブが同じ方角へ向いて表現していきます。モデルはないからこそ自前で考え、試し、失敗し、更新する。その歩み自体が、総合型ミュージアムの成熟の物語を紡いでいきます。

写真:飯田市美術博物館

文化は“関わりの質”で育つ

桜の季節に人でにぎわう外庭、城下町を歩く解説ツアー、夏のワークショップで夢中になる子どもたち。数字では測り切れない「関わりの質」は、確かにここで育っています。

朝食バイキングのようににぎやかだった創成期を愛しつつ、幕の内の整いを求めて、館は次の段階へ。春草と田中芳男という二つの核、学校・地域と結ばれた外へ開く導線、市民とともに積み上げる記録と研究。そして、若手学芸員が特別展をやり切るたびに太くなる人脈と経験。
「ここに来れば、伊那谷がわかる」。その実感を、次の季節も、次の世代へ。
飯田市美術博物館は、市民と共に育つ“文化の拠点”であり続けていきます。

取材・文:北林南
撮影:中島拓也

飯田市美術博物館

飯田市美術博物館
飯田市追手町2-655-7

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