この箱でしかすくえない”はみ出た”表現がある ネオンホールの30年と今
長野市中心部の繁華街・権堂アーケードから北へ。こうこうと街灯の照る夜道の脇に佇む古い建物。その2階にアートスペース「ネオンホール」はあります。1992(平成4)年のオープンから30余年、音楽や演劇、映像作品からお笑いまで、幅広い表現の場としてこの地に根ざし続けてきました。独自性の高いカルチャーの発信拠点として、県内のみならずメジャーシーンで活躍するアーティストたちからも愛されています。
多くの興業が中止に追い込まれたコロナ禍。その影響で全国的に名高いライブハウスや劇場もその幕を閉じたなか、ネオンホールは運営体制を転換・模索しながら現在も営業を続けています。設立した清水隆史さんをはじめ、運営に携わる8名にお集まりいただき、ネオンホールの歩みを語っていただきました。
きっかけはアート作品の展示 表現と発信に奔走
まずは立ち上げ当初から2021(令和3)年頃までを、清水さんと、初期から継続的に関わる増澤珠美さん、4代目の店長を務めた大沢夏海さん、3人のお話から振り返ります。
ネオンホールは清水さんが信州大学の教育学部に在学中に立ち上げたそうですが、きっかけはなんだったのでしょうか。
清水さん
ひさしぶりに会った友達が、伊那にある農学部のキャンパスで巨大なオブジェを作っていたんですよ。産業廃棄物とか電化製品を合体させたようなサイバーパンクな作品ですごく面白くて。自分が仕切るから、長野市で展覧会をやろうと持ちかけたんです。ちょうどそのとき、空き物件だったこの場所が気になっていて、会場にいいんじゃないかなと。当初は展示のために1カ月くらい借りるつもりが、段々と気が変わって、住みながらアトリエ兼ライブハウスにすることに。自分を含めた当時のバンドメンバー3人が住人となって、1992(平成4)年10月にオープンしました。
すごい行動力…!運営はすぐに軌道に乗ったのでしょうか。
清水さん
当時はライブハウスが少なかったし、機材もすごく高かったんです。ボロボロのやつをもらってきて直すこともありました。そんな状況だったから、ライブやイベントがやりたくても行き場に困っている人がいっぱいいて、オープンしてから半年くらい経った頃には、週1回は何かしらイベントが入っていました。ファッションショーや学生のクラブイベントもやっていましたね。
最初の利用も展覧会だったということで、当初から音楽に限らずさまざまなジャンルの催しが開かれていたのですね。
清水さん
そうですね。自分も当時からバンドと演劇をやっていたし、いろいろな表現に興味があったので、ボーダレス、ジャンルレスな場にしたいという思いはありました。
当時から長く続けていくことはイメージしていたのでしょうか。
清水さん
最初は大学院を卒業したらやめようと思っていました。一緒に住み始めた2人は1年間で出て行くことになって、次の年にはたまちゃん(増澤さん)と演劇をやっていた友人の2人が入れ替わりに入ってきて、さらに続けることになった感じです。そこから代替わりが何度かあって、なっちゃん(大沢さん)が4代目の店長かな。その後、現在のような共同運営に変わりました。
大沢さん
私も清水さんやたまさんと同じ信大教育学部卒です。1年生のときにビートルズ研究会(通称Be研)っていうバンドサークルに入ったら、サークル企画のライブを年に1回ネオンでやっていて、そのとき初めて来ました。2年生になってキャンパスが長野市に移ったら、ちょうどナノグラフィカを作っているタイミングで、時間を持て余していたから立ち上げに関わるようになりました。
ナノグラフィカは善光寺門前にある編集室ですよね。なぜアートスペースの運営から、紙媒体の制作に携わるようになったのでしょうか。
増澤さん
この場所のことをもっと知ってもらったり、若者のカルチャーを発信したりするネオン発の媒体として「ネオンブックス」を作りたいって話をしていて。
清水さん
それがちょうど、2003(平成15)年の善光寺御開帳のタイミングで、善光寺周辺の案内冊子の記事を書いてほしいという依頼が来たんです。最初はネオンで作業していたけれど手狭になって、善光寺近くの場所を借りることにしたら、立地的にお店もやった方がいいって話になり、喫茶機能も併設しました。
大沢さん
ナノグラフィカができる前から、取材や編集をして紙媒体を出すのはやっていましたよね。当時のホームページもすごく頑張って更新していました。出演者にインタビューしたり、寄稿してもらったり。
一時は閉鎖も視野に。体制を変えて存続の道を選択
2021(令和3)年に運営体制を変えたそうですが、現在の運営状況を教えてください。
清水さん
それまでは店長を中心に切り盛りする代表制で運営していたのですが、経済的な理由で続けることが難しくなり、現在はここにいる8人がお金を出し合って運営する体制になっています。常駐のスタッフは置かず、公演や利用の問い合わせごとにメンバー間で話し合って、対応できる人がいれば受け入れる、といった状態です。
大沢さん
うまく回していける方法を見つけないと、って思って3年頑張ってみたけれど、コロナも重なって、やっぱり大変で。もう辞めようと思ったものの、機材もあるし、この建物もあるし。なにか続けていくアイデアはないか先代と相談しました。
続けることを選んだ理由には、利用者や地域の方々の声もあったのでしょうか。
清水さん
いや、「誰かのために」というような動機で続けられるレベルは超えていたと思います。周りがいくら良いって言ってくれても、本人がきつかったり、貧乏だったりしたら続けられない。自分たちがどうしたいかを、たまちゃんとなっちゃんと話し合いました。自分としては、やめてもいい気もするけど、ないと寂しいよな…というか、あったらあったで便利というか。30年間あるのが当たり前の状態だから、ネオンがないってどういう状況?って感じでした。
増澤さん
私は芝居の稽古をしようと思ったときに、公共施設を借りているのが想像できなかったんです。あと、ネオンには神が宿っている、っていうのをちょっと感じていて、閉めるのは簡単なのですが、この空間がそれを許してくれないような気もしていて…。自分が終わらせる役はやりたくないなあ…。
清水さん
確かに、この場所に続けさせられている感っていうのはありますね。やる方向で模索するなかで共同運営の案が出て、昔からのスタッフや知り合いに声をかけてみることにしたんです。
独自の表現を迎え入れるネオンスタッフの姿勢
ここからは、現在の体制に移行するにあたって声をかけられ、運営に参加することを決めた酒井亮さん、坂田大輔さん、篠宮信明さん、ワカバヤシヒロアキさん、若林優也さんにも伺っていきます。
声をかけられたみなさんはどのように受け止めたのでしょうか。
若林さん
僕は運営体制が変わる以前からスタッフとして関わっていました。10年くらい前に仕事を休んでいた時期、ネオンに観に来たりライブしたりしているうちに誘われて、そこから何となくずるずると。でもコロナをきっかけにイベントもできなくなって、そろそろスタッフをするのも終わりかな…と思っていたら、今度は運営側に誘われて。この10年のうちに家庭もできたので悩んだんですけど、ネオンからもらったものもいっぱいあるな、と思って。
大沢さん
演劇にも出演するようになったよね。
若林さん
そうですね、ここきっかけで。もともと演劇に興味はなかったのですが、気付けば演劇のワークショップの仕事もやるようになりました。自分が変わるきっかけになることが起きていた場所なので、それがなくなるのは寂しいですよね。
坂田さん
僕は清水さんから話をいただいたときに、ネオンが終わるなんてそんなことあっていいのか、って気持ちでした。演者側としてネオンには本当にいい思い出しかないんですよ。
一番の利用者として残してほしかった。
坂田さん
なんというか、ネオンは演者の熱量とかオリジナリティをちゃんと掬(すく)ってくれるんですよ。楽曲が売れそうかどうかとか、演者の音楽性を流行り物のどこかに位置づけようとするライブハウスもあるなかで、ネオンは、はみ出たものを許容してくれる箱なんですよね。当時めっちゃ下手だったにも関わらず、スタッフが声かけてくれたり、一緒にバンド組んでくれたり。「自分もいていいんだな」みたいな気持ちにさせてくれる場所でした。
増澤さん
あんまり上手いとか下手とかは基準にならないよね。面白いかどうか。
清水さん
なかには、他所ではとてもできないようなアングラな表現もありました。でも邪険にしたくないって気持ちもあって。舞台で行われている作品を見て打ちのめされたり驚いたり退屈したりしつつ「これをどう解釈してどう楽しむのか」みたいな話を、いつもスタッフ同士でやってました。特殊な視点かもしれないけど、そうやって面白がってましたね。
スタッフがまず面白がってくれるからこそ、いろいろな人たちが集まってきたのでしょうね。
清水さん
さっきの坂田くんの話と絡めると、ネオンは経済がトップにないんですよ。普通のライブハウスは、もちろん面白さも大切にしているだろうけど、スタッフを社員として雇用しているから、安定的に収入を作らないといけない。こっちは経済性なんて最初からどこ吹く風で、とにかく面白がるのを原動力に続けてきたんだと思います。
自分たちが一番に楽しむ。ネオンホールが今もなお続く理由
増澤さん
篠宮さんも古株ではあるけど、新しい体制になるタイミングで入ってるよね。
篠宮さん
僕はネオンができた当初にスタッフをやっていて、就職を機にしばらく離れていたんですけど、若林くんや坂田くんと同じように、なくしたくないっていう思いでした。30年も残り続けている場所って、ほかにないですから。バンドの練習や作業場としても使わせてもらうことで賛同しました。
ワカバヤシさん
僕は演劇を主催していて、珠美さんから誘われて運営に加わりました。この場所を残したいというより、演劇やイベントをやる場として、お金を払って使わせてもらっている感覚が強いですね。先に話している人たちって、ここで若い頃に青春してるんですよ。いまも運営として関わっているのは、思い出の延長線上にあるんじゃないかな。この場所になんとも言葉にできない愛情があるとか、ライフワークを続けるうえでネオンがあったほうが便利な人たちが運営に関わることで、30年存続してきているんじゃないかと思います。
坂田さん
スーパーネオンホールっていう、2日連続でやるライブイベントが年に2回くらいあったんですよ。まさに青春ですよね。
清水さん
昔は主催イベントが多かったですね。コロナや運営体制の転換を機にどれも終わっちゃったけど。なかでも、スーパーネオンホールは1995(平成7)年くらいからスタートして、20年以上開催していたと思います。
大沢さん
ライブとか演劇とかアートパフォーマンスとか、ジャンルを問わず詰め込んだようなイベントでした。スタッフもみんな演者として出るし…。そっか、ここのスタッフって表現活動に関わり続けている集まりではあるかも。
酒井さん
僕もずっと音楽やっていて、若林くんがやっているDTM研究会に参加したのがネオンに来たきっかけですね。他のイベントにも参加するようになって、その繋がりのなかでバンド組むことになって…。気づいたら半数以上のスタッフと知り合いになってました。最終的には「たまに葡萄(ぶどう)」っていう篠宮さんや夏海さんも参加している大所帯のバンドにも入って、相当な頻度でネオンに出入りしていたので、僕もスタッフになっちゃえと思って。そしたらスタジオとしても使えるし。
明快なものが好まれる現代だからこそ
ナノグラフィカでは善光寺門前にまつわる企画や冊子の編集など、地域と積極的に関わっている印象です。ネオンホールのように30年以上続く民間の文化拠点は県内でも稀ですが、地域とはどのように関わりを持ち、地域の変化をどのように感じていますか?
清水さん
いまは地域に関わりたいと話す若い世代が増えましたよね。この場所を始めた1990年代は、言葉を悪く言えば「こんな田舎にいたくない」って考えて長野から出ていく同世代が多かったように思います。自分は逆に、すごく地域に興味があったんですよね。今となっては恥ずかしいけど、当時は文化の地産地消みたいなことを言っていて、東京で生まれたものを楽しむのではなく、自分の暮らす長野やネオンでしか観られない音楽や文化を作りたいと思っていました。でも時代が進むにつれてどんどんボーダレスになってきて、場所に限定されず誰でも発信ができるようになったじゃないですか。当時ほど地域性は意識していないけれど、ドアを開ければ長野の景色が広がっているわけで。あくまで、長野にネオンホールがある、ということだと思います。
増澤さん
一度東京に出たとしても長野が好きで戻ってくるような若い人は確かに増えたと感じるけど、それによってネオンがなにか変わったということは一切ないです。
坂田さん
確かにネオンは長く運営しているけど、地域を背負っているみたいな感じは全然ないですね。
ワカバヤシさん
でも受け皿になっていると僕は感じています。本来この規模の箱を借りたら採算が取れないであろうイベントやアーティストの方でも、ネオンの場合はこのメンバーが手を挙げて受け入れさえすれば開催できるんです。僕らが面白がってその機会を提供することはきっと地域の受け皿のひとつとして機能しているのだろうし、それで助かった人がいるということは、決して地域と遮断しているわけではないと思います。
清水さん
ネオンはずっと吹き溜まりみたいな場所だった気がします。吹き溜まりって長持ちしないと思いますが、それが不思議とずっと続いちゃった。ここには割り切れなくてカテゴライズできない表現が集まる一方で、時代は明確に言語化したものを打ち出していくようになっていると感じます。だからこそ、わかりにくいことができる人がここでなにか表現してくれたらいいですね。
メンバーが住居費を出し合って工面するところからスタートしたネオンホール。30年という年月が流れた現在も、運営体制をシフトすることで、経済合理性にとらわれず、拠点としての自由度を損なわず、いまもなお「面白さ」を原動力にステージを灯し続けています。
ネオンホールでは現在、運営メンバーと音響スタッフを募集中。多様な表現に触れてみたい方、自身も表現者として活用したい方はぜひ扉を開いてみてはいかがでしょうか。ネオンホールでしか味わえない「面白さ」を間近で感じられるはずです。
取材・文:波多腰遥
撮影:平林岳志