時代を超えて、諏訪の地で響くシンフォニー 創設100周年を迎えた諏訪交響楽団
諏訪交響楽団。2025(令和7)年に創設100年を迎えた諏訪の社会人オーケストラをご存じですか。結成は1925(大正14)年。日本のプロオーケストラの最初が1911(明治44)年の東京フィルハーモニー交響楽団、次が1926(大正15)年のNHK交響楽団、と言いますから、いかに先駆けであったかがわかります。
諏訪響の歴史とこれからの展望を、楽団の練習所にお邪魔して、理事長・丸茂洋一さんにうかがいました。
楽団の練習所
楽団の練習所は、大規模改修工事中の諏訪市文化センター敷地内にあります。北澤工業株式会社(現・東洋バルヴ)の所有地だった場所で、文化センターも元は社員の福利厚生施設でした。吉田五十八設計、2014(平成26)年には国の有形文化財に登録されています。諏訪響も何度も演奏会を行っている文化センターホールの緞帳(どんちょう)は、東山魁夷「清暁」、杉山寧「昇る陽」、とこちらも貴重なものです。
諏訪響の練習所は、北澤工業当時は木工所だった建物だそうで、1977(昭和52)年に諏訪市が一帯の土地と建物を取得してから、諏訪響が借用しました。音を出してよい時間、完全に退出する時間、などのルールを定めて使用。阪神淡路大震災をきっかけに、楽団側で耐震検査と工事の対応をして、現在も使用を継続しています。
諏訪市文化センター敷地内にある練習所練習所には、演奏経験があるという人でも、なかなか触れたことがないような楽器も並びます。鉄琴に似た柔らかな音色を奏でるチェレスタ。使用される曲は「くるみ割り人形」の「金平糖の踊り」や、ハリー・ポッターのテーマ曲が有名でしょうか。常時使うわけではないチェレスタは、外部へのレンタル対応をしています。吹奏楽部が大編成でコンクールに出場する際に使用されることも多く、「同じ学校から連続して依頼が来ると、上位大会へ進んだのだなって思いますね」と丸茂さん。内心で応援するのだとか。それから、チューニング用に1本のハンドルがついたシュネラー式と呼ばれる本革のティンパニ。ペダル式が広く知られる日本ではあまりお目にかからない形です。曲が作られた時代までも表現するため、伝統の響きを求めて購入したそうですが、特定の音楽にしか使えないのでは困ると慎重に事前検討を重ねたとか。楽器所有ひとつとっても、音楽表現を追求するこだわりと、発生する現実課題の対策が同じ重さで存在し、長く継続してきた楽団の積み重ねが感じられます。
理事長の丸茂洋一さん創設期から戦後まで
楽団の創設者は今井久雄さんと三輪良三さんのふたり。独学でバイオリンを習得した今井さんは、1918(大正7)年頃から、信州白樺派の教育者・赤羽王郎と交流します。武者小路実篤らの文芸同人誌「白樺」を中心に起こった人道主義、理想主義に影響を受けた大正自由教育に傾倒した今井さんは、西洋音楽の推進を運動の柱としました。小学校で音楽会をして回るなどの活動は、次第に社会教育へと移行します。1923(大正12)年に上諏訪で弦楽アンサンブルを開始。1924(大正13)年には楽器店を開業し、バイオリンの音楽教育講座を開きました。
一方の三輪さんは、1916(大正5)年の大学進学時に入った学生寮・長善館の活動で東京音楽協会に参加。1921(大正10)年に下諏訪で歯科医となり、1924(大正13)年にギターやマンドリンの音楽同好会を結成しました。
それぞれの音楽グループは、1925(大正14)年に合同し、諏訪交響楽団のはじまりである「諏訪ストリングソサエティ」が誕生。「基本金を作り管楽器を備えてやがては管弦楽の完成につとむる事」を目指しました。これには、今井さんの「ドイツ辺りでは田舎でも小さいグループで交響楽団をして楽しんでいると聞いたことがあった、やってできないことはないだろう」という思いがありました。同好の士を説いたり集めたり、時には勧誘して教え育て、楽団は発展。演奏活動、講習会、招待音楽会などを積極的に展開しました。
第1回演奏会(1925年4月17日)
第12回演奏会(1928年11月4日)
しかし、時代は第二次大戦へ向かいます。文化活動は困難になり、団員は減少。それでも職場の激励大会や、駅頭での出征兵士の見送り、時には帰還した英霊の出迎え、と演奏を続けます。西洋音楽がにらまれた時世ながら、不思議なことにとがめられることはなく、多い日は1日で3~4回も演奏した、という両角俊一さん(2代目理事長)のインタビューが残ります。下諏訪青年学校のブラスバンド指導も行いました。1932(昭和7)年から三輪さんが指導、1937(昭和12)年に青年学校の教官になった両角さんが育成強化。これが戦後の楽団復興につながりました。
「戦後も信念には変わりがないものだから」とは創設者の今井さんの言葉。楽団は、若者を集めて再び活気を取り戻します。1947(昭和22)年~50年代前半にかけては、県内各地の小中学校で音楽教室を多数開催。プロの音楽家たちも演奏のために諏訪へ訪れるようになりました。
県内音楽教室(1948年10月24日)
一流音楽家との共演
現在に至るまで諏訪響が招聘し、共演してきた数多くの音楽家から名前をあげてみると、芥川也寸志(作曲家)、沖不可止(指揮者)、天満敦子(バイオリニスト)、渡邉暁雄(日本フィルハーモニー交響楽団創立指揮者)、といずれもそうそうたる顔ぶれ。優れた音楽家の演奏を地域へ紹介すると同時に、楽団も同じステージに立つことで演奏技術の研鑽を重ねてきました。2025(令和7)年の100周年記念演奏会では、大河ドラマ「真田丸」のテーマ音楽でも記憶に新しいバイオリニスト・三浦文彰と共演しています。特異なものには、福田一雄指揮、牧阿佐美バレエ団出演の「白鳥の湖」があげられます。オーケストラもバレエも詳しくないという人でも、草刈民代がプリマバレリーナで踊った、と聞けば思い浮かぶのではないでしょうか。オーケストラピットでの演奏経験があるアマチュア音楽家は、とても珍しいと言えるでしょう。
100周年記念演奏会
ロビーには過去の演奏会のポスターを展示
地域に大きな影響を与えた共演は、1964(昭和39)年の小澤征爾。当時28歳、トロント交響楽団の若き音楽監督だった小澤はカナダから来日し、演奏会当日の数時間、開演を押してまで熱心な指導が繰り広げられました。曲目はベートーヴェンの交響曲第5番。アマチュアオーケストラの指揮は初めてという小澤の出演は、信州白樺派の研究者・今井信雄先生から、成城学園中学校で教鞭をとっていた頃の教え子だった小澤に対し、信州白樺派に共鳴して創立したオーケストラ、という勧めがあって実現しました。この共演で、小澤征爾という指揮者の才能に深く感動した武井勇二さん(5代目理事長)は、勤務先であるセイコーエプソンの当時の社長・中村恒也さんに援助を依頼。セイコーエプソンは1989(平成元)~91(平成3)年のサイトウ・キネン・オーケストラの海外公演をサポートしました。これが、サイトウ・キネン・フェスティバル松本(現セイジ・オザワ松本フェスティバル)の開催につながる一端となりました。
ほか、テレビ出演の記録もあり、チェリッシュと一緒だった、さだまさしと演奏したことがあるなど、幅広く活動している諏訪響。1999(平成11)年には、なんとウィーン公演まで実現しています。
音楽のすそ野を広げる演奏活動
諏訪交響楽団は、公益社団法人に認定されています。水準の高い音楽を目指す一方で、親しみやすさを考えたすそ野を広げる活動も大切にしています。1980(昭和55)年に始まった長野県主催の県民コンサートはその代表格。小学校の体育館などを会場にして、地元の合唱団や吹奏楽部の子どもと共演したり、開催場所の校歌を団員がオーケストラ用に編曲して演奏したり、県内各地を巡って手づくりのコンサートをしています。コロナ禍が原因で開催を希望する市町村が減ってしまったそうですが、間近でオーケストラの演奏に親しめる絶好の機会です。
茅野市民館で開催した県民コンサート(2012年)公民館や病院、幼稚園などからの依頼にも応えています。演奏を聴いたお礼に花を渡す体験を子どもたちにさせたい、という園の先生の思いから、小さな子どもたちが手に1輪ずつ花を持って終演後の奏者のもとへ来てくれたこともあったそうで、「近所のおじさん・おばさんがやってきて演奏を聴かせてくれる、という体験は、考えてみれば音楽の種まき」と丸茂さん。「そういうことを続けていけば、響いた次の世代がまた聴きに来てくれたり、演奏に参加してくれたりするんじゃないかな」。
親しみやすい種まきの次は発展です。楽団創設以来、絶えず引き継がれてきた「この地で音楽文化をリードし、育み、みんなに届けたい」という情熱は、演奏会の選曲にも表れているそうで、有名な耳慣れた曲だけでなく、さまざまな音楽を紹介しようと、演奏するにも聴くにも難しい曲への挑戦も厭いません。過去には、お客さんから「長くて退屈なものをお金を取って聴かせるなんて!」という抗議の手紙が届いたこともあったそうですが、それも聴衆が期待して集まっているからこそ。練習に多くの時間を費やす定期演奏会は、特に気合がこもるそうです。
情熱のほとばしり
絶えず引き継がれてきた、と言いますが、100年続けるというのは相当なこと。ひとりの思いだけでオーケストラが動くわけもなく、団員それぞれが、異なる思いを抱いて、演奏レベルを維持しながら活動しているのです。社会人として働き、家庭を維持し、各々の事情を抱えながら、情熱を受け継いで100年。多くの人数が集まって音を出すから練習場所の確保にも気を配ります。楽器は高価ですし、大型楽器や楽譜は管理の手間も倉庫も必要。演奏水準を保つため練習時間の確保もみなさん工夫されてのことでしょう。
冒頭で触れた練習所も、現在の場所に至るまでに何度も変遷しています。創設期には、結成当初からのメンバー関貞英さんが、家業だった料亭へ建設した「関ホール」を借用。公演会場としても使用したこの場所は、諏訪響だけでなく、演劇公演などにも使われ、諏訪の文化活動に影響を与えました。戦時下で団員が減った時には今井さんや三輪さんの自宅、下諏訪青年学校を使用。その後、教会、倉庫、図書館、学校、などと場所を変える間には、近隣の住宅から騒音問題で苦情が寄せられることもありました。
現在の練習場は1982(昭和57)年から、市の支援協力を得て使用しています。基本は平日の夜に全体での合奏。それ以外の日は楽器ごとの分奏練習の予定が組まれ、さらに空いている日には各々が自主練習に訪れます。団員は、高校生から80代まで60人ほどで、諏訪を中心に、伊那、松本、安曇野、上田方面から参加。平日の夜に勤務などを終えてから集まる、それも週に何度も、を実現する努力は並大抵ではありませんが、当たり前のように音を出せる場所がある幸せに感謝して練習しています。
楽譜にも楽器にもエピソードが尽きません。楽譜の入手が困難だった頃には、創設者の今井さんが、ピアノ譜から編曲したり、総譜(スコア)から写譜して楽器ごとの譜面にしたり、ガリ版で印刷したり、とひたすら手を動かしていました。膨大な譜面は、今も楽譜庫に保管されています。
今まで演奏してきた譜面がぎっしり詰まった楽譜庫ティンパニが手に入らなかった時代、それなら作ろうと文献を研究して設計、鉄工所に依頼して作ったという話には呆気にとられるばかり。現在は屋根裏に保管されているということで、残念ながらお目にはかかれませんでしたが、指導に来た日本交響楽団(現・NHK交響楽団)の打楽器奏者・小森宗太郎が音色を誉めたと伝えられます。
数々の逸話とそれを裏付ける資料は、歴代メンバーが音楽にかけてきた熱量を、今の団員に伝える一助かもしれません。100周年記念のひとつには、退団したかつての団員も一緒に、入場無料の「全員集合コンサート」を開催。はるばる県外からの出演もあり、楽団の歴史や、演奏回数の多い十八番を披露するとともに、団員同士も交流を通して感謝を伝え合う時間になりました。
小澤征爾が、1964(昭和39)年の演奏会のときのことを「この音楽に大きな満足感を得た」「音楽にかけた人々の情熱のほとばしりなのだ」(小澤征爾-対談と写真/小澤幹雄編/新潮文庫)と語っていますが、そのほとばしりは、現在も脈々と流れ続けています。
「音って人間、その人そのものなんですよ。楽器を弾いてるときは丸裸だし、自分以上のものも出ない。人生そのものが出ちゃうみたいなところがある。だから、自分の中の音を磨くんです。そういうことを続けて、我々はみなさんに近づいていくし、みなさんにも気軽に来てほしい。そういうオーケストラでありたい」という丸茂さんの言葉は、諏訪響に流れ続ける水脈なのでしょう。

2026(令和8)年9月13日には下諏訪町主催で、下諏訪総合文化センターのリニューアル後のこけら落とし公演を予定しています。指揮をするのは、同町出身で世界的に活躍する指揮者・柳澤寿男さんです。
これから先の100年、そしてその先も。諏訪響は地域の音楽をリードして、聴衆や音楽家と調和しながら、豊かな響きを奏で続けます。
取材・文:小島あや乃
インタビュー・練習所撮影:横澤裕紀
参考文献・写真提供:日本最初の社会人オーケストラ 諏訪交響楽団90年のあゆみ、諏訪響七十年のあゆみ
第1回演奏会(1925年4月17日)
第12回演奏会(1928年11月4日)
県内音楽教室(1948年10月24日)
ロビーには過去の演奏会のポスターを展示














