体験者から受け継ぐバトン 満蒙開拓平和記念館のこれから
戦後80年を迎えた2025年、下伊那郡阿智村にある小さな博物館が大きな注目を浴びました。満蒙開拓平和記念館は、戦時中に約27万人の日本人を旧満州(中国東北部)に送り込んだ満蒙開拓を専門に扱う日本で唯一の博物館。2013(平成25)年4月の開館以来、来館者は2025年末時点で約26万人に達しました。
記念館は体験者や関係者が語り合い記憶を伝えていく活動にも取り組んでおり、満蒙開拓をテーマにした映画や演劇が生まれるきっかけになるなど、文化芸術分野にも刺激を与える存在となっています。
満蒙開拓平和記念館残留孤児支援ゆかりの地に建つ
この記念館が建っているのは、阿智村の中央を流れる阿知川のほとり。近くには中国残留日本人孤児の帰国支援に尽力した山本慈昭さん(1902~1990)が住職を務めた長岳寺があります。
展示室は荘厳な雰囲気の廊下を中心に周遊する形で構成されており、満蒙開拓が推し進められた時代背景、開拓地での暮らし、敗戦による逃避行と引揚げ、国内での再入植、残留孤児の帰国事業などを解説しています。体験者たちの語りを大活字で読むことができるコーナーでは、過酷で生々しい体験談に心が打たれます。
天井の高い廊下は鎮魂の聖堂をイメージバランスと分かりやすさを重視した展示
記念館の運営は一般社団法人が担い、事業費は入館料収入と約500人のサポーター会員の会費、そして50の自治体が協力している自治体パートナー制度などによってまかなわれています。館長の寺沢秀文さんは、建設当時を次のように振り返ります。
館長の寺沢秀文さん寺沢さん
「計画段階では周囲から『こんなところにお客なんか来るはずがない』という声も多く聞きました。行政支援を受けるために提出した計画書には、年間の来館者数をやむなく3000人と記載しましたが、いい意味で予想を裏切ることができました」
寺沢さんは展示内容について「満蒙開拓は加害と被害の両面があるので、そのバランスを大切にしています。また、専門的になりすぎず、一般市民の皆さんに分かりやすい目線で解説するように展示内容もガイドも心がけています」と説明します。
元開拓民の証言を読むことができるコーナー
送り出された開拓民の数は長野県出身者が圧倒的に多い
来館者の感想が記されたカードは開館以来すべて保存
来館した学校の児童生徒たちから贈られた千羽鶴
寺沢さんは、戦後の日本が満蒙開拓の歴史をタブー視してきた問題点を指摘します。
寺沢さん
「今の先生たちも、満蒙開拓について学んだことがないので教えることができない。当事者も後ろめたい部分があるのであまり話したがらない。学問の世界でも、引揚げ者についての研究はあっても満蒙開拓そのものを取り上げた研究は極めて少ないんです。
開拓団に加わっていた当事者の皆さんすら、この記念館に来て初めて満蒙開拓の意味が分かった、とおっしゃる方が多い。まずは満蒙開拓という歴史を知っていただくことが大切だと思います」
父が繰り返し語った「奪われた者」の恨み
寺沢さんの両親も、下伊那郡高森町山吹からの開拓民として吉林省舒蘭(じょらん)県水曲柳(すいきょくりゅう)鎮に入植しました。水曲柳開拓団は飯田下伊那出身者による開拓団の中では最大の規模で、在籍者は最大で1100人余り。終戦前後の混乱期には約300人が命を落とす悲劇を生み、寺沢さんの兄も満州で亡くなりました。父親はソ連軍の捕虜となってシベリア抑留を経験。帰国後は松川町増野の原野に再入植しリンゴ農園を拓きました。
開拓団の再現住居は寺沢さんの両親が入植した水曲柳に残されていた家が元になっているその戦後開拓地で1953(昭和28)年に生まれた寺沢さんは、父親の言葉をよく覚えているといいます。
「満州には最初から家も畑もあった。本当の開拓の苦労を経験した今は、安い値段で土地を奪われた現地の人たちの悔しさ、悲しさがよく分かる」
そんな経験から、寺沢さんは39歳のときに飯田日中友好協会に入会。同協会が設置した記念館事業準備会の事務局長等を経て2代目館長に就任しました。
貴重な証言の場となった定期講演
館は開館当初から、県内外の元開拓団員による「語り部定期講演」を行ってきました。その中には、終戦直後にソ連兵への性接待を強制された女性が、つらい体験を初めて公の場で証言するという劇的な出来事もありました。 岐阜県白川町(旧黒川村)出身者からなる黒川開拓団は、中国人からの襲撃を防ぐために満州を占領していたソ連兵に護衛を頼み、その見返りとして未婚の女性団員を差し出しました。その当事者のおばあさんが語り部として体験を語った場に、寺沢さんも司会者として立ち会っていました。寺沢さんは次のように振り返ります。
寺沢さん
「黒川の遺族会の皆さんとは開館前から交流があって、記念館ができたらぜひお話をしてほしいとお願いしていました。語ってくださったのは、開館初年7月の定期講演にお招きした女性でした。どんなお話をするか打ち合わせなんてありませんでしたから驚きましたけれど、淡々としたお話の中に、タブーとされてきたことを打ち明ける大きな覚悟、信念を感じました。私たちもその思いに応えなければいけないと痛感しましたね」
語り部定期講演の様子(写真提供:満蒙開拓平和記念館)
黒川開拓団の証言者の一人、安江善子さん(写真提供:満蒙開拓平和記念館)
その女性たちを取り上げたドキュメンタリー映画「黒川の女たち」(松原文枝監督)は2025年に全国公開され、大きな反響を呼びました。
寺沢さん
「私も見ましたが、いい映画でしたよ。重くて暗い映画かなと思っていたら、中心となる女性2人のたくましさと朗らかさ、それを支える遺族会の皆さんの温かい人間性がにじみ出ていました。たくさんの人に観ていただきたいので、いずれ当館でも自主上映会をしたいですね」
このほかにも、記念館を訪れた元開拓団員が、それまで家族にも話していなかった思い出を語りだす場面を多く見てきたという寺沢さん。終戦から長い時間を経て新たな証言がなされる背景を次のように推測しています。
寺沢さん
「終戦から時がたって世代交代が進み、タブーを破れる風潮になったということもありますが、この記念館で話せば皆が真剣に向き合ってくれるだろうという期待があるのだと思います」
新しい語り継ぎのかたちも
満蒙開拓を直接経験した人たちが高齢化したことから、語り部の定期講演は2024年12月で終了し、翌年4月からはさまざまな立場の人たちが語り合う「土曜セッション」がスタートしました。
寺沢さん
「満蒙開拓を経験した本人たちがいなくなろうとしている今、本当の『語り継ぎ』をしなければいけない時期に入ったと感じています。土曜セッションでは、遺族や研究者、開拓民を送り出した側の子孫の人たちなど、幅広くお招きして話を聞くのが狙いです」
送り出した側の子孫が歴史に向き合い、それを表現しようとする試みの一つが、2025年に発表された一人芝居「鴨居に朝を刻む」です。
一人芝居「鴨居に朝を刻む」で演じる川口龍さん(写真提供:満蒙開拓平和記念館)
アフタートークの様子(写真提供:満蒙開拓平和記念館)
作・演出を手掛けた胡桃澤伸さんは豊丘村出身で、祖父の胡桃澤盛さんは河野村(現豊丘村河野)の村長でした。胡桃澤村長は多くの村民を満州開拓に送り出し、彼らが集団自決を遂げたことを戦後になって知ってからか、自ら命を断ちました。作品は胡桃澤村長が残した日記を題材にしたもの。初上演は11月15日に記念館で行われました。
寺沢さん
「いいお芝居でしたよ。伸さんは当館と長いおつきあいですが、彼も自分のおじいさんにどう向き合えばいいか長いこと分からなかったそうです。でも私たちと一緒に旧満州の河野開拓団があった場所を訪問して手を合わせた、そのあたりから積極的に向き合うことができるようになったそうです」
寺沢さんたちとの交流が、新しい「語り継ぎ」を生みだした一つのかたちといえそうです。
ボランティアを巻き込んで―若者たちの活躍
同館は、ボランティア活動で館の事業を支えるグループ「ピースLabo.(ラボ)」を組織しています。開館前に行われていた「次世代満蒙開拓語り部養成講座」が前身で、展示ガイド、イベントのサポート、環境整備、証言取材映像の文字起こしなど活動内容は多彩。登録メンバーは40人ほどで県外からの参加者もおり、開拓団の関係者だけでなく、館の取り組みに共感した人たちが広く参加しています。
館を支えるボランティアには高校生など若い世代の参加もあり、その代表格が松川高校のボランティア部です。同部は2018(平成30)年に県内で開かれた総合文化祭で満蒙開拓の歴史を取り上げたことをきっかけに展示ガイドを始め、現在も続けています。より分かりやすいガイドのために自分たちで作ったマニュアルは、毎年少しずつ磨かれながら先輩から後輩へと受け継がれています。
飯田市教育委員会が実施している平和学習「ピースゼミ」でも、毎年中高生が記念館で学習を行い、2025年は小中学生も展示ガイドを体験しました。
ピースLabo.子ども平和学習会(写真提供:満蒙開拓平和記念館)
展示ガイドをつとめる小学生(写真提供:満蒙開拓平和記念館)
研究活動の必要性―忘れられていく戦後開拓
寺沢さんは、飯田市内で不動産鑑定業を営みながらの館長職。館からは交通費程度の報酬しか受け取っておらず、「本業があるからできること」と苦笑します。館は事業の一つとして研究事業を挙げており、寺沢さんも戦後開拓地の調査に力を注いできました。
寺沢さん
「戦後開拓についてはかつては長野県が専門部署を置いて取りまとめをしていて、約215カ所の開拓地があったことが分かっています。けれど1965(昭和40)年に戦後開拓指導事業が終了してからは実態が把握できなくなりました。私は約100カ所を訪れましたが、廃村になってしまった集落も少なくありません。
また、大陸で亡くなった家族や仲間のために引揚者が建てた慰霊碑が県内に56基ありますが、これも多くが忘れられようとしています。そんな中で、飯田市千代小学校では、学校の近くの神社に残されていた慰霊碑に子どもたちが気づいて、自分たちでその由来を調べて、今では児童会で毎年掃除をしてくれています。こうした例がもっと増えてくれるとうれしいですね」
戦後80年が過ぎ、記念館はこれからどのような道を進むのでしょうか。寺沢さんは言葉を強めて語ってくれました。
寺沢さん
「たまたま戦後80年ということで注目していただけましたが、何年目であろうと私たちの思いは変わりません。これからもグローバル化が進む時代、若い人たちには自分たちの民族の歴史をきちんと知ったうえで世界にはばたいてほしい。アジアと日本の若者同士が出会った時、一方は被害の歴史をとことん教えられてきたのに、こちらがほとんど知らないようでは、やっぱり軋轢(あつれき)が生じてしまう。犯人探しではなく、どこで判断を間違えたのか、同じ道をたどらないためにはどうすればいいか。戦争の怖さを知り歴史から教訓を学ぶ、それができる場所であることが、当館の存在意義だと思っています」

寺沢さんのお話から、満蒙開拓というテーマを通して広がりと繋がりが生み出されている場所が、この満蒙開拓平和記念館なのだと感じました。
私たちの身近な人間関係や身近な場所にも、満蒙開拓の歴史が隠れているかもしれません。記念館を訪れて全体の歴史を学んだうえで、自分たちの足元に目を向けてみることが大切だと感じました。
取材・文・撮影:今井啓

満蒙開拓平和記念館
下伊那郡阿智村駒場711-10
元開拓民の証言を読むことができるコーナー
送り出された開拓民の数は長野県出身者が圧倒的に多い
来館者の感想が記されたカードは開館以来すべて保存
来館した学校の児童生徒たちから贈られた千羽鶴
語り部定期講演の様子(写真提供:満蒙開拓平和記念館)
黒川開拓団の証言者の一人、安江善子さん(写真提供:満蒙開拓平和記念館)
一人芝居「鴨居に朝を刻む」で演じる川口龍さん(写真提供:満蒙開拓平和記念館)
アフタートークの様子(写真提供:満蒙開拓平和記念館)
ピースLabo.子ども平和学習会(写真提供:満蒙開拓平和記念館)
展示ガイドをつとめる小学生(写真提供:満蒙開拓平和記念館)










